情報の公開範囲と公開形式について考えた

60坪書店日記 2007年10月30日
伊集院光、岡田斗司夫を語る

上記サイトで「伊集院光 深夜の馬鹿力」内で伊集院氏が岡田斗司夫氏について喋ったことの書き起こしが掲載されていたが、「迷惑をかけるような事になったらどうしようもないので」削除したのだという。
それだけ刺激的な内容だったのだろう。

ラジオとネットは「記録性」や「記録閲覧の手間」が違う

パーソナリティがその職務として、公の電波を通じて発言しているのだから、発言やその内容によって問題が起こったならば、それは発言者の責任となるはずである。
そしてその「書き起こし」が、彼の発言内容と異なるならともかく、正確に反映されているならば、それを公表したことで問題が起きたとしても、元の発言者が負わざるを得ないだろう。
ただ、発言者としては不満が残るかもしれない。

TVやラジオなどの放送は「一過性のメディア」である。
対象となる本人や関係者が視聴していなければそのままスルーされるし、見ていた人が本人に伝えたとしても、後からその内容を確認することは難しい。
対象の番組と放送日時の確定や、その録画や録音を確実に手に入れる手段が無いことに加え、たとえ運良く入手したとしても、その内容を確認するためには、基本的に番組を全部視聴する必要があるなど手間や時間がかかるからだ。

そういった形で「木を森に隠」されていたものを、ネット上に公表された書き起こしは、検索可能で短時間のうちに確認できる形にしてしまう。
そして、対象となった人はそれを見つけ出してしまうリスクを高めてしまうわけである。

発言者としては「できれば本人の目・耳に届かないで欲しい」わけだから、ネット上に書き起こしがあることは「客観的な形式での告げ口」みたいな物なのかもしれない。

発言を文字にするとキツくなる

例え一字一句まで正確に書き起こしたとしても、発言と比べて格段に情報は欠落してしまう。
発言者と視聴者の間の暗黙の了解や背景知識もあるし、その喋り方や声の調子、TVならば表情や身振り手振りなどを、書き起こしに正確に反映することは難しいからだ。

先日の「あややコンサート発言」ではないが、会場内では笑って済まされていたような発言が記事になったことで批判を浴びたように、冗談やその場のノリで言ったことであっても、その部分だけ切り出すとものすごくキツくなるのである。

TVや新聞が政治家批判をするときによく使う手口でもあり、過去の政治家の「失言」と呼ばれるものも、多くは意図的な「切り出し」が生み出したものといえよう。